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このような「働かざるもの食うべからず」を社会の常識に仕立て上げた歴史の裏には、人々を無意識のうちに徹底的に働かせて利益を得ようという暗黙の力が非常に強く働いている。

そこから逸脱する人間を少しでも減らすために、特に学校教育を通じて、社会全体の管理を強め、一見自由な社会生活が営めるように見えるようにしておきながら、実は人々は根底から鎖で縛られているが、その状態にはまるで気づかないようにされているのである。

引用元:「働かざるもの食うべからず」は本当か?より一部編集

今日食事を買ってきてもらいました。

「なんと贅沢な」とおもうでしょうか。

食事は自分で買う。それが当たり前でしょうか。

人から無償で与えられる食事は「おかしなこと」でしょうか。

「働かずに食事を食べることができる」と言って思い浮かぶのは「子供」です。

子供は毎日泥だらけになって遊んだり、ゲームをしたりするだけでも食事にありつけます。

そしてこの原理は両親の愛とともに、神の愛があるからこそ成り立つものです。

今日のご飯が食べられるのは、料理をしてくれた人のおかげでもあり、その分のお金を稼いだ人のおかげです。

しかし、それだけではなく、私たちは、神さまからの恵みを受けているのです。

母親が料理を子供に作ってくれるのは、その人の優しさ「愛」のゆえにです。

そしてその愛を与えたのは「神」であり、その働きがあったからこそ、何もしないものにも食事が与えられるのです。

神はあまねく愛を与えているので、そのことを悟っている人は他者に愛を与えることが、神のためになるということを知っているのです。

このように「働かざるもの食うべからず」という言葉は嘘を含んでいます。

このことわざとピッタリと一致する人生を送るものもいれば、働かなくても、食事を与えられるものは存在します。

そのものを嫉妬する心を持つものもたくさんいることも確かですが、しかし、神はすべてを公平にさばきます。

神に対して、純粋な愛を与えたもには、相応の代価を受けるのです。

この原理があるからこそ、人間の世界で無能だと評価をくだされた人間でも生きることができるのです。

人間の世界では無能なものでも、神の法則の中では無能なものはいません。

能力を十分に開発していないものがいるだけです。だから開発すればいいだけの話なのです。

「働かざるもの食うべからず」という洗脳はこのよな方法で解くことができたのではないでしょうか。

誤解していただきたくないのは、私は決して「怠けてもいい」といっているのではありません。

人間は生まれながらに、使命を与えられ、何か熱中できるものを持って生まれます。その熱中できるもので神のために生きることが良いことだということです。

日常に一般化しているこのような言葉でも、非常に強く私達の心を洗脳状態にしていることに気づかなくてはなりません。

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